多々良さんアーティストトーク/中勘助文学記念館

早いもので今年度ももうすぐ終わりが近付いておりますが、今年度も様々な展示やたくさんのイベントで、多くの賑わいを見せた『めぐるりアート静岡2019』。

最終日となった11/10(日)、今年度のめぐるりを締めくくるように、会場のひとつである中勘助文学記念館にて、写真家・多々良栄里(たたらえり)さんのアーティストトークが開催されました。

街中や、比較的それに近い場所にある他会場と異なり、市街地から少し離れた、静かな場所に佇んでいる中勘助文学記念館。

数年前より『めぐるり』の会場のひとつとして数えられております、文学者・中勘助の過ごしたこの場所に、この日もたくさんの方々がご来場下さいました。

当日、記念館の一室には収まりきらないほどのたくさんの皆様が見守る中、 多々良さん(上写真・右) トークのお相手をつとめるのは、担当キュレーターの白井嘉尚(しらい よしひさ)静岡大学名誉教授(上写真・左)。

白井さんが、ここ中勘助文学記念館での展示に多々良さんをと考えるキッカケとなったのは、伊豆高原・メープルハウジングにて開催された多々良さんの写真展 『ひとびと』を見たときのこと。

2019の4月から5月に掛けて行われたその展覧会での展示方法は、写真展では珍しい屋外での展示。

建物の周りに立てられたパネルに、写真の作品が飾られるというその展示方法は、美術史的な観点から見ても面白いもので、大変に印象的であったと言います。

個展「ひとびと」2019, メープルハウジング(伊豆高原)

そこでの展示や、多々良さんが藤枝での撮影を中心とし、2012年に出版した写真集 『さようであるならば』などを目にし、

「中勘助の小説『銀の匙』とも、言葉に出来ないけれどどこか響き合うものを感じた」

という白井さん。

そうして多々良さんにお話を持ち掛けることとなった白井さんですが、当初はこれら『ひとびと』や『さようであるならば』の作品をイメージし、それをそのままこの場所に持ってきてもいいのではないか、と考えていたと言います。

けれどお話を受けた多々良さんが提案したのは、それとは異なる作品の展示。

それは、『さようであるならば』とほぼ同時期、1996年から2008年までの間に、駒形通りや新通り、常盤公園といった場所を足掛かりに、ここ静岡で撮られたという写真たちを用いての展示でした。

記念館での展示をすると聞いて、直感的に、ここ静岡で暮らしている人々の写真を展示したい、と考えたという多々良さん。

そこで多々良さんが思い出したのは、記念館の床の間に展示されることとなった、ある一枚の写真。

夕方になり、他の子ども達が皆帰って行った後もその場所に残って、 ひとり、常盤公園のジャングルジムに登りよく空を見つめていたというこの小さなこの子に、当時、将来への様々な不安を抱えていた多々良さんは自分自身の姿を重ね、度々写真を撮っていたのだと言います。

お互いに何となく知っているのに、名前も分からないままに取り続けたという、ジャングルジムに登るその子どもの写真。

その一枚を含めた、その時期の静岡での写真をぜひ飾ってみたい、という思いを持ったという多々良さんですが、それらをこの場所に展示することに、多々良さんご自身、決して初めから自信があったわけではなかったと言います。

そんな多々良さんが、自信を持ってその展示の方向を決めることが出来たのは、多々良さんがこの記念館を訪れ、中勘助の詠んだというある歌のお話を聞いたときのこと。

「冬衣はとりをもへらばわらしなの篠吹く風も恋しきものを」。

中勘助の詠んだこの歌に触れ、特に最後の

『 篠吹く風も恋しきものを』

の部分に、大変な感銘を受けたという多々良さん。

そして、その歌の言葉を借りて今回の展示のタイトルを『吹く風も』にさせてもらおう、と思ったそのとき、

「この作品が完成し、自信を持ってこの静岡のスナップを記念館に展示させて頂くことが決まった」

のだそう。

こうして展示の決まった写真たちですが、この記念館での展示を多々良さんが行うにあたっては、主役である中勘助への敬意から、建物のなかへの作品の展示は、床の間に展示された先述のジャングルジムの写真一点のみに。

中勘助が住んでいたという『杓子庵』の中にも、あえて作品は展示せず、杓子庵の窓から外の庭を眺めることで、屋外に展示された作品を楽しむことが出来るようにしたのだとか。

そうして、多々良さんにお声の掛かるキッカケとなった『ひとびと』での展示と同じく、屋外を中心とした展示形式となりましたが、こうした趣向や、記念館の床の間の一点の作品の存在によって、建物の中と外、空間の全てがそれぞれに関係を持ち合って繋がり、この場所での展示が大変に味わい深いものとなりました。

また今回の展示では、『ひとびと』のときには見られなかったという、3つの方向に作品を展示する、3面の展示パネルを導入するという新しい試みも。

それぞれの写真が違う方向に向けられた展示パネルが、それぞれに間隔を保ちながら異なる角度で空間の中に配置されることで、この庭を歩くたびに異なる姿が現れてくる独特の展示方法。

さらには時間の経過によって、自然の中での明るさや光の向きの変化も作品の見え方に影響を与え、その時々で全く見え方が異なってくる、屋外ならではの効果を楽しめる印象的な展示となりました。

こうした曲折を経て、記念館に飾られることとなった写真たち。

元々発表のために撮り溜められていたわけではなかった、それらの写真がこの場所で展示されることになったことに面白さを感じ、

「そういう中で撮り溜めていた写真を十年、二十年後に見つめ直して、目的もなく撮り溜められていたものの持つ価値にもう一度気付き直す。そのあたりが多々良さんの写真の持つ良さなのではないか」

という白井さん。それを受けて、

「時間が過ぎていく、どんどん変わっていってしまうということに対して、あぁ、ちょっと待って欲しい、止まって欲しいという思いが子どもの頃からあった」

と多々良さん。

「写真に撮れば、それは止まった、忘れないこととして残る。では何を残したいかといえば、ひとつには世界の美しさ。日常の細々とした、今のこの綺麗さは、もしかしたら一生に一回かもしれない。

もうひとつは、人が人に対して持つ思いやり。静岡で街を歩いていると、カメラを向けても、ほとんどの人が朗らかに受け入れてくれる、 当時は知らない人でも挨拶を交わすという文化がまだ残っていた。そういうふうに、なんとなくお互いに相手を思いやるということが、貴重なことに思えて、残したいというのがあった」

祖父がやっていた写真館の手伝いをするのが好きだった、という多々良さん。そこでよく聞いていた、

「同じ家族の写真を何年も撮っていると、毎年変わっていってしまうものがあって、最初に来てくれていた頃のことをよく思い出す」

という祖父の言葉から、

「同じ家族をずっと写しているだけでも、最初の写真というものは永遠になる。もう二度と戻れない、重要なものになる」

そんな思いが、小学生の頃から多々良さんの中に生まれ、

「日常こそ永遠になれる。流れている時間の中で、自然なかたちで行ったり来たりするところに宿る永遠みたいなもの、それが大事だと思っている。そんな誰かの永遠に関わりたい」

と感じるといいます。

この静岡の人々の生活の、何気ない日常の一場面を切り取った多々良さんの写真。

静かに時の過ぎていく会場のなか、 永遠を閉じ込めた写真たちをこの場所で見ていると、この時間がずっと続くような、そんな不思議な感覚にとらわれ、そこに写る市井の人々の暮らしたであろう時間にも、遠く思いが馳せられていきます。

そして会場では、お話に出てきた作品集「さようであるならば」をはじめとした、多々良さんがこれまで制作に関わって来られたたくさんの書籍なども公開。

手に取り、縁側に腰掛け、時には中庭の作品を眺めながら、より多々良さんの作品へと深く触れる機会を、たくさんの皆様が堪能して下さいました。

こうして、今年度の「めぐるり」最後の一日を、ゆったりとした時間の中で、多くの皆様に存分に味わって頂くこととなったこの日のトーク。

作品に当たる光が徐々に変化していく様子と、永遠として切り取られた写真の中の人々の暮らしとの対比とが、美しく輝いたこの一日を締めくくりとして、2019年の「めぐるり」は、幕を下ろしました。

(文・吉村友利)

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