寄稿 言葉なき発話、音なき対話 –『近すぎて聴こえない。』

投稿 2019年 11月 11日(月)

めぐるりアート静岡2019のパフォーミングアーツ部門として期間中に開催された市民参加のダンス公演『近すぎて聴こえない。』。秋空の下、無事3公演を終えることができました。そのパフォーマンスをご覧になった静岡県県立大学特任講師の小田透さまが感想を寄稿してくださったので掲載いたします。

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熊谷拓明が脚本、振付、演出を担当し、一般公募で選ばれた17人のダンサーによる野外ダンス劇『近すぎて聴こえない。』のなかで主題化されていたのは、近づくことと触れることの微妙なズレ、押されたり引っぱられたりすることと元に戻ろうとする反発力や復元力であったように思う。ほんの3回の練習の後に迎えられた本番において、ダンサーたちの所作がピタリと揃うことはない。しかしそうしたズレは、瑕疵ではなく、むしろ強みになっていった。アフタートークのなかで、熊谷は、ダンサーひとりひとりのオンリーワンなところを際立たせることがクオリティを上げることになると述べていた。ひとりひとりの「私生活のリズム」を強調することを心がけた、と。ダンサーたちは、わたしたちが同じ人間でありながらひとりひとりは決定的に異なっているオリジナルな存在であるように、同じ所作でありながらすこしずつ自然に異なる動きを互いにシンクロさせる。すると、そこでは、群舞でありながらソロの集積であるような、ソロの寄せ集めでありながらグループとしてひとつにまとまっているような、不思議な個別性と統一感が生まれてくる。2人が1人を押すという、ややもすれば暴力的な行為さえ、必ず跳ねかえって元のかたりに戻ろうとうする復元力が同時に示されるおかげで、どこか希望に充ちた所作であるように見えてくる。

東静岡アート&スポーツ/ヒロバという野外の会場の強みが存分に活かされたパフォーマンスだった。ダンスにしても音にしても、外に開かれた広がりを大切にした作りで、それは限定された空間である屋内では不可能な、野外でこそ可能なものである。ヒロバにある石が小道具になる。中央を囲むように座っている観客のさらに後ろがダンサーたちの舞台袖になる。観客もまたステージの一部なのだ。見る人と踊る人の区別すら切り崩されていく。

静岡出身のミュージシャンたち――ボーカル・ギターの佐々木ゆうき、ベースの永見寿久、ドラムの佐久麻誠一――は、インストから歌付きの曲まで、リズミックなものからポップでキャッチ―なものまで、パフォーマンスを圧倒しない控えめなものでありながら、それを下から後ろから丁寧に支える役目を果たしていた。3人の作る音楽の「スキマ」の多さが自らの振付コンセプトと見事にハマったと熊谷は音楽隊を称えていたが、たしかに、ダンスも音楽も、デジタルに完璧に同期していたわけではないが、アナログに気持ちよくシンクロしていた。ダンサーたち、ミュージシャンたち、会場すべてが自然な呼応を見せており、とても気持ちのよいパフォーマンスを作り上げていた。

ダンサーたちがみな、空から散って落ちてくる何かをつかまえ、指先でつまみ、いつくしむようにまじまじと眺めると、それがそのままエンディングになる。17人がみなで演じるこのパントマイムは、言葉なき発話であり、音なき対話であり、わたしたちがみな空にかかった虹や舞い落ちる花びらを思わずふと見上げるときに生まれる奇跡的な共感のシンクロの上演だったように思う。下手をすれば単なる肉体的な体操になってしまう華やかでアップテンポなダンスで畳みかけるのではなく、むしろ、静かなパントマイムという一筋縄ではいかない「表現」を選ぶことによって、動きにおいてはクールダウンしながら、パフォーマンスの密度や強度を静かに高ぶらせ、そしてそれを再びゆるやかに解放するという、かなり複雑なクロージングが試みられていた。そこにはたしかに若干の肩透かし感――これで終わり?――もあったけれど、おおむね成功しており、晴れやかな秋の日にふさわしいような気持ちのいい感じをわたしたちのなかに残してくれた。

寄稿
小田透(おだとおる)
静岡県立大学特任講師。カリフォルニア大学アーバイン校比較文学科でPh.D取得。専門は比較文学、批判理論、表象文化論。翻訳書にスティーヴン・エリック・ブロナー『フランクフルト学派と批判理論』などがある。


関連情報
私とダンス劇(『近すぎて聴こえない。』当日パンフレットWEB版)

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